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アジサイの変種オタクサとシーボルトの逸話



HP編集略号ajisai3.htm


和名: ガクアジサイ

英語名: Hydrangea

中国名: 八仙花、緑球花

改編:2014年5月17日 

初稿:2009年6月19日

撮影:東京都東村山市の武蔵野緑地



 5月から6月に東京都下の留守宅に一時帰国した時、武蔵野緑地の荒れ地で、2種類のアジサイの花

を見ました。 一つは、半球形状に咲く Hydrangea macrophylla 、別の一つは、顎アジサイと呼ばれる

Hydrangea macrophylla forma normalis です。 


 本日は、半球形状のアジサイが満開に至るまでの写真を眺めながら、シーボルトの逸話に触れて見たい

と思います。


タイに魅せられてロングステイ タイに魅せられてロングステイ
綻び始めた半球形アジサイ(左)  半球形を整えはじめたアジサイ(右)


 アジサイの原種である日本原産の萼アジサイの学名は、Hydrangea Macrophylla forma normalis です。

古い資料の一部に、その派生種の半玉形アジサイの学名に奇妙な名前の変種名が記録されています。

 アジサイ科アジサイ属・変種名 オタクサ ( Hydrangea Macrophylla var. Otaksa )


 変種名“オタクサ”の申請者は、江戸末期の日本に多大な影響を及ぼしたドイツ人のシーボルトです。

 Phillip Franz von Siebolt  (1796年 Feb.27生 - 1866年Oct.8没) 


 長崎・出島のオランダ商館のドイツ人医師だった彼は、有為な日本人医師を鳴滝塾で育成する傍ら、

日本の風物や植物などを世界に広く紹介 した博物学者としても知られています。   


 半玉形アジサイの変種名として、Otaksa (オタクサ) を正式に登録しようとしたシーボルト の心積もりを

覗いてみたくなりました。


 欧州には存在しないアジサイの変種を日本で見つけたシーボルトは、愛してやまぬ日本人妻の楠本 滝

( 愛称:オタキさん) の名前をオランダ語風に捩って登録申請したと思われます。


  Hydrangea Macrophylla Forma normalis var. Otaksa

  Hydrangea= hydr = 水 、angea = 容器、 Macrophylla=大きな葉 、 Forma normalis =正規

  var. Otaksa=オタクサ  ( var.とは、変種名=種小名を意味する記号)


半球形状に咲く 学名Hydrangea macrophylla


 日本原産のガクアジサイを、妻の愛称で登録しようとした彼の心持は、紆余曲折はあったようですが、

最終的には受け入れられませんでした。 当時の欧州社会では、女性の名前を植物の愛称や俗称で呼ぶ

ことはあっても、欧州植物学会は、女性名を学名として正式承認する事は許可しなかったのです。


 シーボルトとお滝さんのエピソードを知ったのは、高校時代に、図書館で偶然手に取った一冊の幕末の

歴史書でした。 長崎の出島に着任した28歳のシーボルトは、長崎で治療した17歳のお滝さんに一目惚れ

して結婚を決意します。ドイツ娘との結婚を促す家族に、 彼が書き送った手紙が残っています。


   『
素晴らしく可愛い日本女性と結婚しました

   『
お滝さん以外の女性を妻に迎えることは絶対にありません


 当時、出島のオランダ商館に出入りを許されていた日本人は、長崎奉行所の役人、托鉢僧侶、そして、

遊女だけでした。 シーボルトは、お滝さんを丸山引田屋の遊女と騙り、出島にお滝さんを引き入れて世

帯を構えます。 2年後(1827年)、2人の間にお稲さんが誕生します。


お滝さん  ( 楠本 瀧 ) 愛娘・お稲さん (楠本 稲) Phillip Franz von Siebolt


 それからおよそ3年後(1830年)、日本駐在の契約期間が満了したシーボルトは、ドイツへ帰国すること

になります。彼は一時帰国した後に、日本へ帰化を願い出ることを決意します。


 ところが、日本人の何者かに (間宮林蔵?) 密告されて、帰国荷物の中に、国外搬出禁止の日本地図

があることが発覚。国禁を犯したシーボルトは、永久国外追放処分となり、親子3人の生活は、6年で終局

を迎えます。歴史教科書にも残る有名なシーボルト事件です。


 僕が二人の娘の 『 お稲さん 』 を知ったのは高校時代です。幕末写真集に掲載されていた長崎・皓台寺

の墓の説明文に、 『シーボルトとお滝さんの娘のお稲さんの眠る楠本家の墓』とありました。


 日本の女性で初めて西洋の産科医学を学んだ人物との記述もありました。但し、医術開業試験を受験し

ていないために、、正式の第一号産科医ではなかったようです。 


 お稲さんは、シーボルトの高弟の一人である産科医の石井宗謙との間で、娘のお高さんを出産して

いますが、石井宗謙(医師)とは結婚することもなく、生涯独身を通しています。



楠本 稲 (シーボルトの娘) 楠本 高 (お稲さんの娘) 石井宋謙・お高さんの実父


 お稲さんは、シーボルトの門下生の石井宋謙を酷く軽蔑していたことから、娘のお高さんは、石井宋謙に

レイプされて生まれたとする説が強いようです。シーボルトの門下生仲間は、恩師シーボルトの娘に手を

付けた石井宗謙を、破門同然の扱いにして、全く相手にしなかったという話が伝わっていますが、真相に

関しては、お稲さんが何も語らなかったので、今もって藪の中だそうです。


 日本とオランダの修好通商条約が締結された翌年(1859年)、 シーボルトの日本国外追放処分の解除

が発令されます。 彼は、オランダ貿易会社の顧問として、長男のアレキサンダーを伴って再来日し、妻の

お滝さん、娘のお稲さん、孫娘のお高さんと、30年ぶりの対面をしています。


再来日を果たした頃のシーボルト (63歳)


 お稲さんの娘の 『 お高さん 』 が親子孫4人の涙の対面について語った内容が残っています。


   
祖母(お滝)は祖父(シーボルト) が追放になった2年後、商人の俵屋時次郎と無理やり再婚

   させられました。 祖父も10年後に郷里のドイツ女性と再婚して子供をもうけています。

    明治になって、祖父がオランダ貿易会社の顧問として来日しました。 その折、祖父(63才)と

    祖母(53才)、娘のお稲(33才)、孫娘の私(7才)は、涙の抱擁を果たしました。

    祖父は、今まで肌身離さず持っていた祖母と私の母(お稲)の髪の毛を両手に握りしめて、

    いかなる時も、二人のことを一日たりとも想わなかった日はなかったのだよと言いました。


 シーボルトは、長崎・鳴滝に住居を購入し、30年前の教え子との交流を再開。その家で、妻の

 お滝さんと娘のお稲さんとの一家団欒の生活を始めます。その後、幕府の外交顧問として江戸に

 招聘(1861年)され、幕府の学問所などに出向いて西洋学の講義を行っています。


晩年の楠本 稲さん ( お稲さん )    一人娘の楠本 高さん (お高さん)


 江戸滞在中のシーボルトの不便を慮った妻のお滝さんと娘のお稲さんは、気を効かしてお手伝いの

『 おシオさん 』 という女性を雇ったのですが、なんとしたことでしょう、本当に男って大馬鹿ですね。65歳の

彼は、その女性との間にも子供を作ってしまいます。 お滝さんとお稲さんは、さぞかし呆れ果てたことで

しょうね。 


 そのような事件もありましたが、約2年7ケ月(1859年-1862年)の日本滞在を終えたシーボルトは、子息

の兄アレクサンダーと弟ハインリッヒを日本に残してドイツに帰国。 トドイツに戻って4年後の1866年に

波乱の人生を終えています。 お滝さんは、その前年の1865年に58歳で亡くなっています。


 シーボルトとお滝さんの今わの際の言葉が残っています。

   シーボルト『
私は美しい平和な国へ行きます 』  その国とは天国、それとも日本でしょうか?

   お滝さん 『
彼と一緒にオランダのイチゴを食べたので、もう何も思い残すことはありません


 歴史の流れに翻弄されたドロドロとした秘話の中にも、人の心を打つ歴史が流れていることを、あらためて

気付かされました。


《 産科医院を開業したお稲さんの略歴 》
年度 年齢  記事

1827

誕生

 ドイツ人のシーボルトと楠本瀧 (お滝さん) の一人娘として誕生

1830

 3

 父・シーボルト国外追放処分

1846

18

 伊予の医師・二宮敬作に基礎医術を学び、石井宋謙に産科を7年間学ぶ

1853

25

 長崎に戻って石井宋謙との間にできた娘のお高さんを未婚のまま出産。産科医院を開業

1856

28

 長崎で医師・二宮敬作に再び師事。村田蔵六(大村益次郎)にオランダ語を学ぶ 

1858

30 

 医師・二宮敬作がお滝さんの家で医院を開業

1859

31

 日蘭修好通商条約によって追放処分解除後、シーボルト再来日。
 父親から西洋医学を学ぶ。 

1860

32 

 ヨハネス・ポンペから産科・病理学を学ぶ

1861

33

 父・シーボルト、徳川幕府の外交顧問に就任

1862

35 

 アントニウス・ボードウィンから産科・病理学を学ぶ

1865

38

 母・お滝さん死去(享年58歳)

1866

39

 父・シーボルト、ドイツにて死去(享年67歳)

1871

44

 異母兄弟のアレクサンダー(長男)、ハインリッヒ(次男)の支援で東京築地で産科医開業

1872

45

 宮内省御用掛(産科)を拝命

1875

48

 医術開業試験制度開始 (但し、女性のお稲さんは受験資格なし)

1876

49

 東京築地の産科医院閉鎖して長崎へ戻る

1884

57

 医術開業試験の門戸が女性にも開放されるが、お稲さんは高齢により受験を断念して
 産婆として開業

1889

62

 長崎の産院を閉鎖して東京にいる娘のお高さん一家と同居

1890

63

 医業を廃業してからは、弟ハインリッヒの世話となり余生を送る

1903

77

 食中毒(?)により東京の麻布で死去(墓所は長崎市皓台寺)





この主題に関連するホームページ内の別の記事 

(主題をクリックすると該当頁に移ります)



 主題  初稿年月日  改稿年月日  HP編集略号
 中国の紫陽花はアジサイに非ず  2009年6月19日  2014年11月14日  ajisai 1.html
 意外だったアジサイの名前の由来   2009年6月20日  2015年11月16日  ajisai 2.html
 アジサイ種小名のオタクサとシーボルトの逸話(当該頁)  2009年6月18日  2014年5月17日  ajisai 3 htm







読者の方から頂戴したコメント

 hiro-1からのお返しコメント


■無題
う〜ん。この話を読みながら見ると、一段と紫陽花がうつくしくみえました。ホロリシャンティcoco 2009-06-19 21:34:58


■シャンティcocoさん
シーボルトとお滝さん、そして、娘のお稲さん、そして、孫娘のおタカさんを題材にした歴史小説を捜していますが、未だに見つかりません。
hiro-12009-06-19 23:03:25


■シーボルトとお滝さん
逸話とっても良かったです。確かに、紫陽花の学名にはならなかっものの、俗称(というのか品種名)に女性の名前が多いですよね。 ヨシコ、ノブコ、タイコ、キヌヨ…紫陽花の品種名だけで何十種類もあり、興味の尽きないお花です。(^-^)
一詩 2009-06-19 22:04:34


■一詩さん
紫陽花には女性の名前が多いとは聞いていましたが、それそれに、それぞれの逸話があるのでしょうね。
hiro-1 2009-06-19 23:15:22


■無題
アジサイ大好きなんです〜(*^▽^*)  とっても癒されま〜す♪
ムーマルシェ 2009-06-19 22:20:41


■ムーマルシェさん
梅雨時の一時帰国でしたが、七変化のように色変わりするアジサイの魅力に取りつかれてしまいました。
hiro-1 2009-06-19 23:20:50


■また勉強になりました。
まさにハリウッドが映画化すればと思うような波乱万丈な生涯ですね。興味が出たので滝本稲で検索したら、トップに早速、hiro-1 が引用されていて驚きました。NHKの大河ドラマ希望リストに "ふぉん しいぼるとの娘" (吉村昭著)が出ていました。 
仏暦2487年生まれ 2009-06-20 05:41:46


■仏暦2487年生まれさん
昔のNHK大河ドラマの 『 大村益次郎 』 で、滝本稲が登場したのを覚えています。 現在居住されているドイツでも、シーボルトは有名なのでしょうか? 今度、日本に帰国した時にでも、 "ふぉん しいぼるとの娘 " ( 吉村昭著 ) を探して購入します。
hiro-1 2009-06-21 01:59:54


■無題
吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」(新潮文庫) 
http://machi.monokatari.jp/a2/item_2455.html  
はもうお読みですか?
シャンティcoco 2009-06-20 22:33:02


■シャンティcocoさん
吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」(新潮文庫)は読んでいません。 教て頂いたHPで小説(?)の粗筋を読ませて頂きましたが、僕の想像よりは、人間臭くてドロドロしているみたいですね。 次回帰国の折に購入して読んでみようと思います。  ありがとう御座いました。
hiro-1 2009-06-21 02:13:40

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